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♪♪妄想乙女マーガレット通信★vol.40♪♪
別冊「まりりんのの日記」/ペットさん(ペット・ショップ・ボーイズ)偏愛フリーペーパー
第40号・2006年09月発行★発行人:まりりん石原、執筆乙女:マーガレット(題字:ニール王子)

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「Pet Shop Boys、icon」;「GQ」UK版4月号インタビュー@
 遅ればせながら、「GQ」4月号のインタビューです。ニューアルバム発売前なのに、なぜか新しい写真が一枚もなく、表紙など「Actually」のアルバムジャケットで「いつのだよ!」とかツッコミたくなりましたが、インタビュー内容は新しいモンです。(Traum様、入手ご協力ありがとうございました)
 

クリス・ロウ「ポップスターになるなんて非常識でばかげているといつも思ってた。」
ニール・テナント「僕は全部ばかげているとは思わないよ。そうなるのもすばらしいって思う。」

賢くてチャーミングで、影響力があるのに軽視されている。ニール・テナントとクリス・ロウはブリティッシュ・ポップの長きにわたるアウトサイダーだが、更なる21年後も影響力を持ち続けているだろう。だからと言って彼らはニコニコしているわけではない。(インタビュー:Jason Barlow)

 
ペット・ショップ・ボーイズ。芸術的で象徴的で、産業の私利的な“栄誉の殿堂”へ認められることが、いまだありそうもないみじめな国宝。あなたがハードコア・ロック派ならば、裏切った偽者だ。そうでなければまさにポップの英雄だ。
 ペット・ショップ・ボーイズは合わせないし、決してそうしなかった。レッド・ツェッペリン・スタイルで暴れまわるヴァルハラ・ロックは彼ら風ではなかった。まさしくささやかれた暗示、ここにはドキドキするような、明らかにぱっとしないとか陰気なものは何もない。もっと納得ゆくように言うなら、それがポイントのようなものだ。
 彼らは経歴と同じくらい平凡にしているとはいうつもりではなかったが、今年は最初のヒット「ウエスト・エンド・ガールズ」から21周年記念を迎える。世界規模のナンバー1、イギリスとアメリカ両方のチャートのトップになることは、誠意ある最初のレコードだった。ニール・テナントは誰が聞いても、誰にでも思い出された。彼は、否定と感じる確実性のために理解しているのだろうか?彼はもっとよく知っているだろう。36枚のヒットシングルと5000万枚のレコードセールスの後、ペット・ショップ・ボーイズは、エルヴィスが“ロンリー・ストリート”の最後に取り上げたときから最も洗練されたポップ・ミュージックのいくつかを断固として“不合理で愚かしい”ビジネスと位置づけている。
 
 彼らはギルバート&ジョージ、モアキャンブ&ワイズ、エレクトロ的レノン&マッカートニーだ。彼らは、マーク・E・スミスの不可抗力の人間嫌いとモリッシーの皮肉とを結合したら発生した。それは、以前ラジオ1でペット・ショップ・ボーイズがサイモン・バテスのかわりに彼ら自身のピール・セッションをネットしたことを思い出す価値がある。率直に言って、無邪気でアホなピート・ドハティが彼らのブーツをなめるのは正しくない。

 このストーリーは80年代に始まる。私は60年代に取り付かれていた(今もそうなのだ)が、ポップ・ミュージックは70年代(ボウイ、ボラン、ロキシー、クラフトワーク、ザ・クラッシュ)に実際、十分に発達したと主張できる。私は1981年に「スタンド・アンド・ディヴァー」を機にレコードを買い始めたが、それを振り返ることはない。'63年や'76年は最高の“元年”だったが、君達すべてが経験したわけではないだろう。
 80年代は、正直、相当奇妙な古い時代で、ポップな経験を持つにはかなり難しい時期と言える。そう、私は今振り返って、アダム&ザ・アントの「プリンス・チャーミング」(エミネムの「スタン」のようなもの)のNO.1を阻止するものが常にあることを不思議に思う。また、ザ・スミス「ディス・チャーミング・マン」、ABCの「ザ・レキシコン・オブ・ラヴ」、スクリッチ・ポリッチ、ジュ-ザス・アンド・マリー・チェインなどもある。私は全てに夢中になったものだ。
 しかし、彼らはデフ・バスタード・レパード、ビッグ・カントリー、フィル・コリンズ、ディル・ストレイツに比べれば取るに足らないだろう。これは偉大なるポップではない、膨れた、チャートを穢す汚物だった。最も退屈だ。80年代なかばのトップ40(思い出すと私たちは、火曜日のランチタイムにラジオをフラップトップの机に隠しながらゲーリー・デービスを聞いていた)はゴー・ウエスト、ジョニー・ハツ・ジャズ、レヴェル42のようなもので詰まっていた。彼らは公務員と不動産業者によって愛されていた。彼らは公務員と不動産業者みたいだったからだ。
 そうこうするうち、ストック・エーケン・ウォーターマンは舞台そでで、凶悪なチャートを騒がすマシンをすらすらと書き続けていた。もしそれが治安を悪くするポップの無法者だったなら、あなたはお兄さんに「ロンドン・コーリング」のコピーをしてもらったか、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやレスター・バングズについて尋ねただろう。シグ・シグ・スプートニクは期待に添えなかったろう。
 だからといって、まさにペット・ショップ・ボーイズが音楽の革命に点火をしたわけではない。私が初めて「ウエスト・エンド・ガールズ」(1985年10月、ダウンタウン・ラジオにて)を聞いたとき、正直、ものすごく上品な神の出現とまでは思えなかった。覚えやすいな、と思った。独特の歌詞、独特な歌い方をあなたが「面白い」と思えたなら、人々が戦いを始めた北アイルランドの小さな海辺の町に住んでいるなら、私が大きな
市ばかりに気をとられていたように、それはロンドンをほどよく思い起こさせる。私はそれを買い、1週間後に、それはトップ40 (それは多くの場合、この場合2ヶ月はポールポジションへの長くハラハラする引っ張り合い) の中の下のほうに入った。
 彼らには何かがあった・・・根本的に、賢さとメロディだ。彼らは歌のプロのように思われた。レコードは美しいパッケージで、時間が魅力を増す前に、恐らくもうポストモダンだった。ちょっと変わったものが周りにあり、土曜の夜のTVの言葉のセンスの飾らないXファクターのサインはない。
 しかしまだはっきりと何かがある。いったい誰が、これが恐ろしいほどチャートを闊歩する、長きにわたる冒険旅行のスタートだと知ることができたろうか・・・私ではないことは確かだ。

ニール・テナント(以下NT)「10年前、僕たちはアント&デクがペット・ショップ・ボーイズにとって代わるもんだと思っていた。」
クリス・ロウ(以下CL)「まだわからない、そうなるかも。」

 ノース・シールズ生まれのニール・テナントは1972年にロンドンに上京し、ノース・ロンドン工芸学校で学び、その後出版社で働いていた。マーヴェル・コミックの編集者として、彼は、微妙な英国マーケット用の裸の胸の覆いをチェックしていた。彼は後に、「デイリー・ブック・オブ・ホーム・マネージメント」(私の母はコピーをまだ持っている)を編集する。1982年に、彼はスマッシュ・ヒッツの仕事に携わる。そこで彼は、今日の「ヒート」のような雑誌を浄化させるのと同様、「スマッシュ・ヒッツ」の隠語を公式化させるために、チャイナ・クライシス、カジャグーグー、マルコム・マクラーレン、マリリンなどをインタビューした。
 クリス・ロウはブラックプール(「僕はプレジャー・ビーチが好きだった。小さなトフィー・アップル、キャンディ・フロス、機械油・・・。」と彼は言う)で育った。学校のバンドでトロンボーンを弾き、リバプール大学で建築を学んだ。テナントとロウは、1981年ロンドンのキングス・ロードのハイ・ファイ・ショップで出会い、一緒に曲を作り始めるようになった。1983年ニューヨーク、スマッシュ・ヒッツの仕事でスティングにインタビューする間、ニールはカリスマ・ディスコ・プロデューサーのボビー・オーランドを訪ねる。彼はテナントとロウが崇拝するパイオニアで、駆け出しのデュオに協力するように説得された。最初のバージョンの「ウエスト・エンド・ガールズ」は、1984年、エピックからリリースされ、クラブでヒットした。
 彼らは同年、トム・ワトキンスにマネージメントの取引をし(彼は後に、ブロスやイースト17のキャリアを育てる)ボビー・Oから離れることになる。そしてパーロフォン(ビートルズのホームで、後にレディオヘッド、最近ではコールドプレイが所属)と契約にサインする。彼らの新しいレーベルからの最初のリリース「オポチュニティーズ」は115位で、彼らの2枚目の「ウエスト・エンド・ガールズ」はもう少し良かった。だからと言って彼らがそれに満足していたわけでもなさそうだ。

NT「もちろん、僕らは笑わないことで有名だった。笑わないことで、僕らが嘘で塗り固められていないと表したかった。“それぞれテディ・ベアを抱いて、写真を撮っていただけませんか”“いやだ、やりたくない!”一日中やる、やらないで言い争って、いまいましいテディ・ベアは帰った・・・。“見てよ、僕らはテディ・ベア写真を撮らなかった!”バカな写真、アホなリクエスト、ああ、いろいろ戦ったね。」
CL「マジで、長いバトルだった。」

 ペット・ショップ・ボーイは今も昔も、輝かしいポップスターだ。実際、テナントは今51歳で、チャート・チルドレンと競争している。彼らの素晴らしいアイデアはいつも輝かしい。彼らの新しいアルバム「ファンダメンタル」は来月(注:2006年5月)リリースされるが、コラボレーター、トレバー・ホーンと再ユニットを組む(スーパーサイズのポップミュージックの学生・・・言い換えれば私のような・・・にとって、これはスリリングなイベントだ。ホーンは分別のあるフィル・スペクター、とても英国的リック・ルビンだ。)。やや自負して、彼らの2003年のヒッツ・コンピレーション“ポップアート”は、馴れ馴れしくペラペラで使い古しの一方、彼らの軌跡を完璧に要約している。
 1987年、エルビスのトリビュートに参加するというジャネット・ストリート・ポーターのTV番組の誘いで、彼らの「オールウェンズ・オン・マイ・マインド」はOTT 
hi-NRGクリスマス・カバーのNO.1になった。2004年9月、トラファルガー・スクエアでセルゲイ・エイゼンシュタインのクラシック映画「戦艦ポチョムキン」のサウンドトラックの特別ライブをドレスデン・シンフォニカーとのコラボでパフォーマンスした。この2つの間で、ペット・ショップ・ボーイズは優雅に、時々不真面目に、ある意味ポップ・アクションにはふさわしくないキャリアを描いている。
 彼らは対比である。南か北か、喜びか悲しみか、ゲイかストレートか、情熱か分離か、リアルかフェイクか、インかアウトか(いろいろな方法で)。彼らが「パラドックス」というアルバムを出すのも時間の問題だろう。
 ずっと以前、テナントは解放と徹底的再構築のための機会を提供するため田舎からロンドンに逃げた。ディスコは、ニュー・ロマンティック・ブームのファッショナブルなエリート主義を経て、スリリングな快楽主義のニュー・クラブ・サブ・カルチャーになった。また、ペット・ショップ・ボーイズのテンプレートを提供したのもディスコだった。
 テナントとロウは、初期の彼らのただ一つの野心は、彼らの好きなソーホーのレコード屋で自分たちの作品が白いラベルの12"で売られるのを見ることだと言っていた。テナントはさらに、最初にニュー・オーダーの「ブルー・マンディ」を聞いた日に「ミスド・ザ・ボート」を思い浮かべたと述べている。
 2003年の「Q」マガジンで、「ペット・ショップ・ボーイズはエレクトロニックな言語純粋主義者にはならない」と言っている。「僕たちが曲を書くときは、クリスがシンセを弾いて、僕がアコースティック・ギターを弾く。でも、ボビー・オーランドのプロデュースで、クリスが僕に“パッション”を思いつくまま弾き、それをコピーするまで、僕らは音を決定しない。僕らは、オーランドのパンク・クオリティのような残忍なエレクトロニックなエッジが大好きなんだ。」テナントは説明しだした。
「“オーランド”はクラフトワークやジョルジオ・モルダー、パトリック・コウレー、シルベスターなどとは違う血統だ。でも彼はトレバー・ホーンやニュー・オーダーをコピーしていた。僕たちは最上の美しいメロディのリズムが好きだ。僕はアングラや他のエレクトロニックには興味がない。僕らはすばらしいポップ・ソングライターが欲しかった。」
 その日から、ペット・ショップ・ボーイズはケーキを作って食べる専門家になった。テナント認めないにもかかわらず、彼らの最初のインスピレーションと念願は流行を追って不明瞭だった。しかし間もなく、彼らはより辛辣な音楽評論家をもろともせずに、巨大な利益を上げるレコードセールスを記録し始めた。急成長するマス・アピールにもかかわらず、ポップ力学の彼らの把握は、彼らが笑いながら野次馬やフワフワと浮かぶ風船に囲まれて去っていく、「トップ・オブ・ザ・ポップス」パフォーマンスすることを意味していた。彼らは、ポップの取材の好きな色や嫌いな家庭の雑用についての質問に答えさえしたが、彼らは、重要性のミステリーを完全に理解した。彼らは自分たちのルールでゲームをしていた。人々は彼らが惨めに見えただろう。私はいつも、彼らが楽しい時間をすごしているわけではないと思っていた(「僕らはたまにお茶目になっていたね。」と、テナントは話してくれた)。
 その情況下では、それは勝利の定式だ。ライターで挑発的なポール・モラリーは、バケツ一杯のレコードをフランキー・ゴーズ・ハリウッドと同時に売り、バンドのZTTレーベルによってプロセスを構築しなかった(レコードジャケットの場バース&バラードを大胆に引用した)。スクリッチ・ポリッチのグリーン・ガートサイドはカントとジャックス・デリラを歌ったが、彼のレコードは、アリフ・マーデンとマイルス・デイヴィスのような24カラットの長さでプロデュースされた。ザ・マリー・チェインは暴動を予言しなかったし、伝説的ライブのひとつを北ロンドンで始めた。すべてが言われて終われば、誰も卑劣でなかったか、あるいは破壊的か、ペット・ショップ・ボーイズのように成功した。

NT「僕たちが歌を書くことが好きであるという事実によって燃料を供給されたことが歌にとっての"アイデア”だ。歌の存在証明でもあるアイデアだ。人々はよく“あ、すごくペット・ショップ・ボーイズっぽい!”と言いがちだけど、僕たちのアルバムはいつも本当に違っている。例えば、元からあった“ゴー・ウエスト”をどう定義するかはとても面白い。子供たちは本当にこの歌が好きだからね、僕たちが“デヴォ・ルック”だったから・・・。」
CL「イル・ディーボに対抗するようだね。」                                   ・・・続く・・・

★★★★★★★今月の写真★★★★★★★★★★

‘87〜’88年ころの古い写真ですが、エリック・ワトソン(もともと写真家で、初期のPSBのPVを多く手がけている)撮影のこの写真は、イギリスが誇る国営美術館、ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵の”美術品”なのです。ニールがインタビューで、お気に入りの写真を聞かれて「クリスのストライプのメガネの写真が好き」と言っていたので(自分の写真じゃないのね・・・)、多分これでしょう。ベビたんがとっても若い男の子みたいに見えるので(当時20代なかば)、年の差が10歳くらいはあるように見えます。

 


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