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♪♪妄想乙女マーガレット通信★vol.43♪♪
別冊「まりりんのの日記」/ペットさん(ペット・ショップ・ボーイズ)偏愛フリーペーパー
第43号・2006年10月発行★発行人:まりりん石原、執筆乙女:マーガレット(題字:ニール王子)

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シリーズ:1曲に固執してみる▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽

なかなかやりたくてもできなかったのが、「1曲を徹底的に研究してみる」ことです。ちょっとやってみたいです。基本的には好きな曲なので拘りたいんですが…。初回はちょいトランス&絶望的歌詞の取り合わせが絶妙なI don’t know what you want but I can’t give it any more』(1999)です。

I don’t know what you want but I can’t give it any more』、直訳すれば「僕は君の望みがわからない、でも、もう君に何もあげられない」ですが、ただでさえ長いこのタイトル、クリスに言わせれば『I don’t know what you want but if I did know I probably wouldn’t be able to give it any more』(「僕は君の望みがわからない、でも、もしわかっていたとしても、これ以上君に何もあげられない」)が正しいそうですよ?「欲しい」が精神的なものなのか、それとも物質的なものかがわからないように、「僕」と「君」が心を通わせられなくなった瞬間を切り取った名言ではないだろうか。

 ここでちょっと話がそれるかもしれないけど、“音楽と、それを生み出す個人(プライベートという意味合い)は全く関係ない”というニール&クリスの主張について考えてみたい。
 確かにこのスタンスはとても正しいといえる。彼らの言う主張にはほぼ同意できる。音楽とは、純粋に音を楽しむものだとしたら、作った人のプライベートはもちろん、作った人が“誰か?”などということすら意味がなくなるのだ。
 例えば映画俳優ならば、スクリーンに映る虚構のキャラクターは、演じている俳優の個人(プライベート)には全く関係ない。そこに映っているのはフィリップ・シーモア・ホフマンではなく、カポーティなのだ。俳優は、撮影に入るまでのリサーチや役作りの苦労や過程を決してスクリーンに反映してはならない。私はフィリップ・シーモア・ホフマンが大好きだけど、彼のプライベートを知りたいとは思わない。彼が悪人でも善人でもそんなことには興味がない。だから、私生活を暴かれがちな典型的ハリウッドスターにはあまり興味を持つことができない。スターの私生活など知りたくない。
 音楽にも同じことが言えるだろうか。“音楽”を“音、メロディ、旋律、声”と“歌詞”に分けると、ちょっと意味が変わってくる。後者の“歌詞”の分野には、個人がかなり深くかかわって来ざるを得ないだろう。作った人が“誰か?”や“どんな感情で書かれたものか”という要素が多少なりとも入ってくる。入らなければ嘘、かもしれない。もちろん俳優の役作りのように虚構で考えられたものもあるかもしれないが、多くは作詞家の体験に基づく考えやポリシーから生み出されるのではないだろうか。語り掛けをスタイルにしたシンガーソングライターなどは、そうでなければ意味がない”音楽”というものもある。
 ここで『I don’t know w
hat you want but I can’t give it any more』。ナゼこの曲を持ち出したか。理由は、この曲の歌詞が、ニールの実際の体験に基づく、とはっきりと明言されているから例に出してみた。
 ニールはこのタイトルと一言一句おなじことを、自分の恋人に言ったという。「僕は君の望みがわからない、でも、もう君に何もあげられない。」本当にこの発言が事実なら「“(歌詞も含めた)音楽”と、それを生み出す個人は全く関係ない」というスタンスはちょっと崩れてくる。ちなみに、『You only tell me you love me w
hen you’re drunk』(「君は酔っているときだけ好きだという」)も、「自分が言った言葉」と、ニールは明言している。
 ご存知の通り、PSBは歌詞がどっち作で曲がどっち作という分け方をしておらず、全ての曲が共同名義であるが、多くの曲に於いて、歌詞のメインをニール、曲のメインをクリスが担っていることはほぼ間違いないだろう。ということは(この曲に限らず)ニールの体験や考えや思想が歌詞に反映されることは、かなりあるはずだ。ちょっと矛盾している。
 でも、それが「何が悪いのよ」と思う。ミュージシャンの人間的な体験や考えや思想を共有できることは、聞き手にとってマイナス要素ではない。ファンに至っては、むしろ喜びですらある。積極的に覗きたいとは思わない(思っちゃいけない)けど、作品として世に出て、提供されたものは大いに楽しみたい。それともニール&クリスは、自分自身でたまに言うように「軽薄で意味のないポップス」だと思っているのだろうか。軽薄で意味のないものなんて、この世に名作として残るはずがない。その呟きは、おそらく天狗にならないように、あるいは天狗になって消えていったほかの誰かを見た結果の、自分への戒めの言葉なんだろうと思う。
 世の中には”共感”という言葉がある。体験していないけど「わかるわぁ…」という気持ち。「アタシはあなたの望みがわからない、でも、もう何もあげられない。」なんて言ったことないし、そんな場面にも出くわしていないのに、私の心をガッチリ捕らえたのは。ナゼ?そういうことなんですのよ、ニール。

アイ・ドント・ノー・ホワット・ユー・ウォント(バット・アイ・キャント・ギヴ・イット・エニイモア)

欲しいものは手に入れられた?それがなんなのか、わかっているの?
気にかけている?彼は僕よりいいのかい?
君の部屋にいたの?それとも彼のところに?誰かいたのかい?
それが間違っていたのか?悪かったと気がついたのか?
長すぎたのか?僕の気持ちなんてどうだっていいのか?
だって、君は僕の心を傷つけている
君がどうして欲しいのか僕にはわからない、でも僕はもう何もしてあげられない
君が何を求めているのか僕にはわからない、でも僕はもう何もあげられない
君は僕の心を傷つけている

暗号解読か、それともただの暇つぶし?それだけのこと?
それならなぜ、君はまた犯罪現場に戻ったりしたんだ?彼が呼んだのか?
これ以上、僕を責めるつもりなんだね、言い訳を聞かされるんだね
僕たちの行き着く場所は、いつも僕が間違っているって結論なんだ
だって、君は僕の心を傷つけている
君がどうして欲しいのか僕にはわからない、でも僕はもう何もしてあげられない
君が何を求めているのか僕にはわからない、でも僕はもう何もあげられない
君は僕の心を傷つけている
君の望みが理解できない

(マーガレット訳)



★★★★今日の関係者・イレイジャー★★★★★★

 関係者じゃないか…。一般的に“PSBとカブりまくりのライバル”と言ったらこのイレイジャーだ。私はそうは思わないけど、イレイジャーのファンサイトのトップに「PSBに負けるな」と書いてあるので、向こうのファンは相当ライバルと思っているようです(逆にPSBファンはイレイジャーをあまり気にしていないような)。PSBも「イレイジャーのライバル」と呼ばれることにあまり良く思っていないような感じがする…不仲かどうかは知らないけど。
 では、どのくらいカブっているか。先ずは音楽のジャンルがエレポップであること。ヴォーカル&キーボードスタイルという男性デュオということ、デビューが同じ1985年、黄金期も80年代後半。ヴォーカルのアンディ・ベルがカムアウト・ゲイであること(ただしキーボードのヴィンス・クラークはノンケ)。などなど。ただし、アンディはキャンプな(ちょっとオネエ入っている)ゲイなので、PSBとはチト違うが。ちなみに彼らはゲイのバイブル、ABBAをカバーしていて、PVでは“一番オカマがやりそうな”アグネタ&フリーダのドラーグをしてベタに踊り歌うという「プリシラ」まがいの暴挙(まあ、アンディはライブではものすっごく解放されていて衣装とかもキャンプらしいので…)を披露している。こんなのPSBがやったら、いや絶対やらないけど、やったらドン引くな。悪夢だよ!
 もともとデペッシュ・モードのリーダーだったヴィンスが、デペッシュ・モード脱退後、オーデションで選んだのがアンディ。90年代は低迷していた時期もあるけど、現在でもちゃんと活躍中。アンディは去年ソロアルバムも出した(シザー・シスターズのジェイクとデュエットもあり…聞いてないけど、多分すっごくキャンプだろう!)。組合員同士、喧嘩せんと仲良くやって下さい(マーガレットは平和主義なの)。

Professional Photo
二人とも結構コワモテ(前がヴィンス)
写真もPSBの「リリース」のときの写真とカブっているような・・・後ろのアンディの格好がクリスにそっくり



★★★★★★今月の写真★★★★★★★★★★

 上のイレイジャーの写真と”似てる?”と思った写真。比べてみると、クリスがかなりアンディと同じです。この写真は、2002年。フジロック・フェスのパンフにもこの写真が使われています。このときまだ髪が短いのに、2003年、次に現れたときはもうブロンドロンゲだったベビたん。不思議〜〜。
こうなると、どっちが先かで悩むところです。少なくともニールは、イレイジャーの話をされると「ちょっとちょっと」となるので、好意は持ってないようですが、こういうものはマスコミとかファンとかのちょっとした行き違いだったりしますからね。


★★★★★★★★★★★★★★コメンタリーby Literally★★★★★★★★★★★★★★

PSB公式ファンクラブ会報「Literally」30号、アルバム「Fundamental」のニール&クリスのコメントを訳していなかったので、訳しております。

Sodom and Gomorrah show

ニール「タイトルは前からあったんだ。2005年の2月の終わりに、僕たちはナポリに行ったんだけど、ベルリンに住んでいるルカ・バルディニというイタリアのダンスプロデューサーとDJをプログラマーとしてかかえていて、パトリック・コーレイ・サウンドでアップデートすることに決めた。」
クリス「ホント?僕らはナポリで書いたけど、パトリック・コーレイはロンドンじゃなかった?だって、パトリック・コーレイのレコードで音階を作り出したでしょ。僕らは製作にかなりの時間を費やした。」
ニール「僕はナポリだったと思う。だって、デモは恐ろしいほど粗かった。僕らがナポリで作った3曲は、すごく、すっごくラフだったよ。」
クリス「僕らが書いたとき、それは、“four-on-t
he-floor”じゃなかった。」
ニール「僕らはとても期待はずれの時間を過ごしていた。それから、突然素晴らしいコードチェンジをした。スタジオは、プラネット・ファンクというイタリア人の奴らのものだったんだが、彼らは“おおっ、すごいコードチェンジだ!素晴らしいチューン!”と言った。それは本当に奨励だったけど、僕らはそれに関して確かではなかった。“It’ a sin”みたいな感じで、トレヴァー・ホーンと一緒にやったとき、それから取り入れたかった。僕らはその作業に年月を費やした。これと“Luna Park”は、最も時間がかかったトラックだよ。僕らはトレヴァーに、ザ・キラーズの“Mr. Brig
hside”、スチュワート・プライスによるThin White Dukeミックスのコピーを渡した。それは、不安定でない、一種の“four-on-the-floor”で、彼は採用した。トレヴァーは、最初の2小節のコードを変えて、オリジナルコードチェンジに戻った。」
クリス「すっごくたくさんのコードがあるよね。」
ニール「音楽的過ぎるくらい。」
クリス「重過ぎたかも。彼は単純化させた。」
ニール「それで、僕らはアン・ダドリーに調整を依頼して、彼女は最初のブラスをアレンジした。」
クリス「ニールはクラシックなトレヴァー・ホーンがいいと言った。」
ニール「トレヴァーは言った。“え、ギャグがほしいってコト?”で、僕は言った“そう、ギャグだ”」
クリス「彼はそれらをギャグって呼ぶ。」
ニール「僕は“全てのトラックにギャグが欲しい”と言ったんだ。」
クリス「それ、“sun、sex、sin・・・”とか。」
ニール「僕らは教会の少年聖歌隊にそれを歌って欲しかった。トレヴァーにはそれをやってもらえる学校があったけど、それでリリックを見てもらった。僕は“”歌詞には全然悪いものはないんだよ、聖書からの出典だよ!“と言った。しかし、彼らは結局やってくれなかったので、僕らはシンガーですました。僕はそのかすれたヴォーカルを部分的に同じように入れて・・・。」
クリス「”Dollar”」
ニール「そう,僕は”Dollar”のような音がそこに欲しかったんだ。僕は、トレヴァー・ホーンのグレイテスト・ヒッツで試して見た。その喋りは・・・まったくギャグだったね。」
クリス「僕たちは、歌が存在したところを視覚化しようとした。」
ニール「それは砂漠の中からスタートする。砂漠の中から聞こえる風の音だ。そして、クラブに近づいている。」
クリス「・・・で、ドアが開いて、クラブの中でバンドが演奏するのが聞こえる。」
ニール「僕らは“ザ・プロデューサーズ”のフレッド・アップルゲイトという男に連絡した。彼は本当にいい奴だ。彼はやってきて、僕らは2,3のことを彼に依頼し、それからトレヴァーと一緒に編集した。素晴らしいイントロを生み出したね。スタートの音楽の一部、吹奏は、誰かが僕にくれたテープから採った。それは、1979年に僕が数人の友達とピアノでホンキー・トンクのような演奏をしたものだ。僕は長い間、このトラックを取っておいた。」
クリス「すごく壮大なトラックだね。」
ニール「僕は最初のタイトルがあったけど、それが何を意味するか確信していなかった。でも、現代社会についての何かのことだとわかっていた。僕はインターネットで“ソドム・アンド・ゴモラ”とググって、聖書から得た。聖書からの引用がある。“一つまみの塩を受ける”は、ロトの妻がソドムから逃げる際、塩の柱になることからの参照だ。それで“私は平原の
市へ思い切って出る勇気がない”・・・ソドムとゴモラは平原の市だけど、僕は“平原の市”(それはもちろんプルーストの「失われた時間を求めて」の2巻の名前)とわざわざ言う必要がないと思った。僕はライン4の引用はもったいぶっていて、好きだ。僕は「失われた時間を求めて」の初刊を半分読んだけど、とても退屈だ。とにかく、僕らはロンドンに戻って歌を持って帰ったとき、僕は思い続けていた・・・この歌の意味は何だ、と。意味が何かわからずにいた。それから僕はソドム・アンド・ゴモラ・ショーが全てに於いて大げさなテレビ上の世界であることだと悟った。欲情だ!ちょっと不快だね。ニュースのやり方は、エキサイティングなショーのごとく紹介される。中間に来た。“階下に下りた場所で/私は理解した/ショウの本当の意味”・・・そして、僕は思った。“本当にいいラインだ。”と。でも、ショウの意味がなんだったか考えられない。仕上げるのに数ヶ月かかったよ。それから、ショウの意味は、明らかに愛を意味していると理解した。“天使たちがためらうような場所で、生きること、学ぶこと、愛することを君は知った”・・・すごくいいラインだと思う。歌の中で、語り手は、「I wouldn’t normally do this kind of things」とおなじ人だ。この世界の中で生きていない内気で静かな人は、恋に落ちると他の人々の行動以上のものがある。この歌の中で、彼は世界に関係し始める。彼は、世界が滅びない唯一の方法を理解する。僕たちは、こんな世界に住んでいる。真実であろうとなかろうと、核爆弾、気象の変動、あるいはアジアの鳥インフルエンザ、第2の喫煙被害;・・・毎日・毎週のデーリーメールの見出しは、破壊の瀬戸際の間で、際限なく示される。世界は、我々がお互いにリスペクトし、共存するのは愛を通すからで、愛は世界を壊すことはない。世界を回避するのには、それに参加するだけでは十分ではない。参加する上に、それによってある種の命を全うすることか、生き残るか生活に実行することができる愛を見つけなくてはならない。トレヴァー・ホーンは、ニューヨークのクラブに行ってカミング・アウトする男のことだと思っている、と言った。また、ある意味ではクラビングに行ったことがない男についてとも。先週、誰かが僕に、エイズ危機を生き残った男についてだと言った。誰が知っている?そうであってほしいあらゆるものだと言える。ボブ・ディランはこんな風に彼のリリックを説明してくれないだろ?」


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