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♪♪妄想乙女マーガレット通信★vol.81♪♪
別冊「まりりんの日記」/ペットさん(ペット・ショップ・ボーイズ)偏愛フリーペーパー
第81号・2009年10月発行★発行人:まりりん石原、執筆乙女:マーガレット(題字:ニール王子)
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▲▽▲▽▲▽▲Pandemonium NYCレビュー&インタビュー▲▽▲▽▲▽
USAツアーの初日である9月1日、2日のニューヨーク公演に行ってきました。
PSBでは珍しいイベントであるMeet & Greet(ライブ前にアーティストと会って話せる機会)と2日間のライブの様子は、
マーガレットのツアー記
に詳細を書きましたので、こちらを是非ご参照ください。
ここでは、アメリカのメディアが伝えたPSBについて、いくつかのサイトを訳しました。
実は、アメリカではPSBはそんなにメジャーではなく、一部のPethead(熱狂的ファン)とゲイ・コミュニティ、そしてクラブ界以外の一般には、いまだに「80年代のバンド」と思われています。でも今年発売されたアルバム「Yes」は1993年の「Very」以来、ビルボード・チャートの100位以内にランキングされ、シングル「Love etc.」はダンス・チャートで見事に5年ぶりの首位を獲得…、と、アメリカでも復帰の兆しがあります。イギリスでは、PSBは今年のBRITSの名誉ある功労賞を受賞し、英国民全てにその存在とパワーを改めて見せつけ、凱旋ライブでロンドンで一番大きなO2アリーナを満員にし、イギリスのピンクリスト(社会的に影響力のあるオープンリー・ゲイ有名人のランキング)で、ニールは全体の16位(ミュージシャンではベス・デットーに次いで2位)に入るなど、80年代が戻って来たような活気のある年になっています。
さて、アメリカにまでその波は流れるのでしょうか。レビューとインタビューをどうぞ。
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New York Post
Pet Shop Boys have lots in store
By ELISABETH VINCENTELLI(9月2日&9月8日)
彼らの最初のヒット「West End Girls」以来の25年間、ペット・ショップ・ボーイズがキャッチーで覚え易いシンセ・ポップのメロディに、乾いたウィット、上品で、都会的なメランコリーを入れることによってポップ・ミュージッに革命を起こした事は、いまでは良く知られている。
イギリスのバンドのPandemoniumツアーが今夜と明日の夜、Hammerstein Ballroomにやって来る。彼らの2ダースの名曲に合わせて歌うことができるだろう。映像にぽかんと口をあけたままにしていなければ、そうなるだろう。
本当に、ボーイズのライブの上演技術のインパクトは、同じ様に重大だった。彼らは、異種の芸術的な世界から引き抜かれた創造的なチームを集めた。
ボーイズのシンガーで共同リーダー、55歳のニール・テナントは電話で「まさに始めた時から、僕たちは音楽をビジュアル化したかった。」と思い出す。そのために、過去のコラボレーターは実験的な映画監督のDerek Jarman、売れっ子建築家の Zaha Hadid、 "Billy Elliot"の振付師のPeter Darling、オペラ・ディレクターのDavid Aldenが含まれている。
「みんな"おおっ、それは新しい!”と言うけど、でも、実際はそうじゃない。」と、Pandemoniumの振付師、Lynne Pageはくすりと笑う。「ただ、別のジャンルから来ただけよ。」
Pageは「La Cage aux Folles(Mr. レディ、Mr.マダム)」のロンドンでのリバイバルと、今シーズンにブロードウェイでやっている「A Little Night Music」の仕事をした。また、舞台デザイナーのEs
Devlinも劇場とオペラで活躍中。マドンナのクラブ向けのヒット・アルバム「Confessions on a
Dance Floor」を共同プロデュースしたStuart Priceは、曲のアレンジを助けた。
Pandemoniumのためのアイデアは、2月にテレビで放送されたBrit Awardsのショーの時に企画された。バンドとDevlinとPageは、ビデオ・エレメンツをフィーチャーした12曲で10分のメドレーを作成した。そして、現在遍在するアメリカ人のスターを。
「僕たちは、"Have I Done to Deserve This?”をやるつもりだったから、Dusty Springfieldのパートに女性が必要だった。」とテナントは言う。
「Lady Gagaは文字通り、イギリスのチャートに入ったばかりだった。僕たちは考えた。”このLady Gagaはどうだろう?”と。彼女は本当に素晴らしかった。彼女はティーポットみたいな衣装でやって来た。」
基本的なヴィジュアルに加えて、Brit Awardsのコンセプトは、Pandemoniumの歌のリストを想起させた。それは、彼らの最新のアルバム、2009年の「Yes」まで、バンドのキャリア全体をカバーしている。
「"Paninaro"のリズム・トラックをかぶせて"Go West" をプレイするというこのアイデアにすごく興味を持った。」と、テナントは言う。「ショーでは、かなり多くの歌が続く。それは4場面で構造されて、それぞれはほとんどメドレーのようだ。」
Devlinはコンサートの状況に従って再配列できる300個の段ボールの箱という、フレキシブルなデザインを思いついた。「Esと私は、あらゆる点で物語の強い意味が欲しいと思ったの。」と、Pageは言う。
また、ミュージカル・シアター・トレーニングを積んだパフォーマーを使うことで、振付師は「Jealousy」のような多様なスタイルのルーチンを作りだすことができた。
「私はそれをとても肉体的にした。基本的に、終わるまでにダンサー達は、お互いにセットを投げ散らかすの。」と、彼女は言う。「私たちがロンドンの02アリーナでやったとき、そこで初めてモダンダンスをやったみたいだと言われたのよ!」
Hammerstein Ballroomが揺れるプレミア初日となる可能性があるだろう。
ペット・ショップ・ボーイズは、今夜と明日の夜、Hammerstein Ballroom(311 W. 34th St.)にて公演。
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TIME
OUT NEW YORK - MUSIC
イギリスのシンセ・ポップ・アイコンのペット・ショップ・ボーイズはニューヨークを讃える。
物語はNYから始まった、とブリティッシュ・ポップ・スターのペット・ショップ・ボーイズは言う
1983年、テナントは、イギリスの雑誌スマッシュ・ヒッツの音楽ジャーナリストとして働いていた(米国の姉妹誌はStar Hits)。Policeにインタビューするためにニューヨークに来たテナントは、彼のダンス・ミュージックのヒーロー、ボビー・オーランドに連絡を取ると決めた。「僕は電話で彼の音楽を称賛した。」テナントとは思いだす。「彼は、‘君がニューヨークに来たら、チーズバーガーを食べよう'と言った。」と思い出す。「それが、僕たちがやったことだ。」
それが彼の覚えているテナントのニューヨークへの2回目の訪問だった。「本当、マジで怖い、今とは完全に違っていた。」テナントとキーボードリストのクリス・ロウはオーランドと一緒にタイムズスクエアをツアーした。「彼は言った。“見てよ!むこうにいる男!彼はピンヘッドと言うんだ。彼らは頭にストッキングをかぶって、君らから強奪するんだ”。」と、テナントは説明した。「僕たちがそこにいたとき、フランス人の旅行者がタイムズスクエアで、彼の子供の目の前で殺害されたのを覚えている。で、僕らは'ここがまさしくニューヨークなんだ、ね。'と言う感じだった。」
「West End Girls」は表面上、ロンドンの街の生活についての歌だけど、歌はニューヨーカーで染まっている。2人は芸術家気取りのアンダーグラウンドのクラブから、ニューヨークの風俗産業、8th アベニューのポルノ・シネマに精通していた。「僕たちはよくL’Escalita(301, West 39th
street,NY)というプエルトリコ人のナイトクラブに行った。そこは家族連れが周りに座ってドラァグ・クイーンを見ている場所だった。」と、テナントは言う。「これは僕たちがイギリスでやったことがなかったことだ。」歌の震えるベースライン、きれいなシンセと魂を込めたバッキング・ボーカルを全て聞くことができる。
しかし、本当に「West End Girls」に関して人々を驚かせたことは、テナントのおかしな英語のラップだった。Grandmaster Flashの「The Message」にインスパイアされた。テナントは、彼自身のアクセントを使うと決め、同時に喜び、結果に当惑しているのに気がついた。ロンドンに戻り、彼がニューヨークで書いた3曲の歌を同僚たちにプレーしたのは「West End Girls」ではなかったが、友人がテープの終わりに偶然にその曲を見つけた。「そしていま、この歌は完全にトレードマークだ。」と、テナントは幸せそうに言う。
その時から、ペット・ショップ・ボーイズが5000万枚以上のレコードを販売して以来、一貫して世界中でナンバーワンのスコアだ。しかし、アメリカでのバンドのポップ・スターダムは短かった。テナントは、バンドの「Domino Dancing」のホモエロティックなビデオが、アメリカでの彼らのキャリアを殺したのではないかと示唆されたと言う。そこでは、2人の男性が少女を巡って争うが、少女が不在だと彼は説明する。Sam Kinison(アメリカの早世したコメディアン)の喜劇的なわめき声は助けにならなかった。「ドイツでは、同性愛嫌悪は問題じゃないけど、アメリカでは、それは問題だ。」と、テナントは言う。「でもそれから、僕たちはアメリカで、最大のゲイ・フォロワーを得た。僕たちはどこかに辿り着いた。アメリカは、最もゲイで、最も同性愛嫌悪だ。それは最も悪い、最悪の人種差別主義だ。すべてがいっしょくたんだ。」
テナントは、ペット・ショップ・ボーイズが90年代後半に「恐ろしく流行遅れ」になっていた間、彼らはクラシックに発展していたと思う。「それはおかしな言い分だ。でも短期間のジャーナリスト経験で、常にポップ・ミュージックに興味があった。その外を少し見ることができる。」どのような場合でも、長い間、メインストリームでの成功がテナントとロウの議題にある。「僕たちは、いつもマス・マーケットであるように努力していた。」と、彼は言う。「オルタナティブ・ミュージックには一度もなりたいと思ったことはない。しかし、さらに僕たちは、そこに達する事に妥協したくなかったので、それは闘いだった。」よって、「Yes」のステージ・ショーは、ビデオ・プロダクション、幻想的な光のエフェクト、300個の段ボール箱をフィーチャーしている(それはカニエのツアーをデザインしているオペラ・デザイナーのEs Devlinによって作成された)。有名な市のランドマーク的な建造物が2人の周りで踊っている、ニューヨークに捧げられた特別なパートと同じ様に。「人々がそれをもったいぶっていると思うならば、僕たちはもったいぶっていることをこれまで避けられなかった。」と、テナントは肩をすくめる。「でも、寒くならないように期待するよ。」
<彼らのニューヨーク>
ペット・ショップ・ボーイズのお気に入りのクラブ
●Area( 180 Varick St. Soho, NY)
「かつて僕が好きだったナイトクラブ。それはガラスの後ろにリビングのアートワークがあった。アンディ・ウォーホルを見た唯一の場所がAreaだ。僕は振り向いて、僕の友人にバーで何を飲みたいかを彼女に尋ねた。彼は僕の右後ろに立っていた。」
●Better
Days(West 49th Street between
8th & 9th Ave, NY)
「素晴らしいブラック・ゲイ・クラブ。ミッドタウンらしい。Shep PettiboneがそこでDJをやっていたことがある。」
●Paradise
Garage(現在は閉店、84 King Street, Sohoにあったゲイ・クラブで、そうそうたるダンス・ミュージシャンがパフォーマンスしていた伝説のクラブ)
「ノン・アルコールのクラブ。ノン・アルコールは我々英国民にとっては、びっくりするほどすごいアイデアだった。もっとも、人々はロンドンの何年も前からEcstasyをやっていたけど。」
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TIME
OUT NEW YORK – THE VOLUME
ペット・ショップ・ボーイズにQ&A:ディラン、ニーチェ、段ボール箱…ニール・テナント
by Sophie Harris(2009年8月29日)
イギリスのシンセ・アイドルのペット・ショップ・ボーイズがニューヨークにやって来る。9月1日火曜日と9月2日水曜日、Hammerstein Ballroom、メガヒットの“West End Girls”(ここNYでレコーディングされた)以来25年の活動と彼らの新しいアルバムを記念したYesツアーである。私たちは今週の雑誌のオープニングのために、ニール・テナントと話した。Q&Aの完全版をここに掲載する。子供の頃のニール・テナントのお気に入りのディランの曲は何か、ペット・ショップ・ボーイズはアメリカ大使館でどうやってElection Nightをこなしたか、80年代にホテルの部屋からデュオはいやいや行くことができなかった理由を、クリックして、過去にジャンプして探ってみよう。
Q:ちょうどヨーロッパ・ツアーを終えたところですね?
A:ああ、3週間前にね。本当にうまく行った。サンクトペテルブルグで始まって、テルアヴィヴで終わったから、かなり広い範囲だった。
Q:イスラエルで最近"暴動"があったようですが?
A:うーん、要するにインターネットであったのかな(笑)。
Q:ベドゥイン(アラブの遊牧民族)の結婚式のDJが、ペット・ショップ・ボーイズのレコードを掛けたことでトラブルになったとか…
A:ああ。ウェブサイトをアップデートしたとき、“ペット・ショップ・ボーイズ”をGoogleで検索して、それを見た。とにかくそのアラブ人女性は、音楽のセンスがあったんだね(笑)。
Q:あなたは最近、まだ自分をパンクと自認していると言いましたね。私は今でも、後世に伝わる奇妙で破壊的なものがあるという考えが気に入っています。「熱狂的に踊っている女性」と記事には書かれていました…。
A:(笑)人々はブルカ(女性の顔を隠すためのベール)を投げ捨てている!暴動が始まっているよ。
Q:Yesのステージ・ショーをデザインしたのは誰ですか?
A:彼女はEs Devlinと言って、劇場とオペラのデザイナーだ。彼女は僕たちのミュージカルCloser to Heavenと、僕らの前のツアーをデザインした。彼女は最近、カニエ・ウェストやTake Thatと一緒にやっている。ショーは僕とクリスと彼女のコンセプトだ。僕たちは開催地のサイズに合わせてフレキシブルなショーをしなければならないから、L.A.のGreek Theaterのような小さい場所でもプレーできる。そう、ショーは伸縮自在だ。約300個の段ボールの箱でベースを作ったから、それはハイテクとローテクの奇妙なミクスチャーなんだ。それは実際に美しく見える、本当にね。
Q:あなたは、Yesはアメリカにおける新しい楽観主義の感覚に影響されていると言いましたね。
A:ああ、僕たちはElection Night(選挙投票日の夜のイベント)で米国大使館に招待された。彼らはそこでパーティーを開いた。僕たちが招待された理由は本当に全くわからないけど(笑)。でもとにかく、行ってよかった。僕たちは大使に会った。すべての大使館のスタッフが、オバマが勝ちそうだったから喜んでいるように見えた。僕たちは言っていた…それ以上嫌われないのは素晴らしい!他の国が、ブッシュ政権下のアメリカを嫌っていたみたいだと、僕は思っていたからね。
Q:ニューヨークとの関係について教えてください。
A:うん、もちろん、ペット・ショップ・ボーイズは、音楽的にはニューヨークから生まれた。1983年だった。その時、僕は、スマッシュ・ヒッツ(イギリスのポップ・マガジン)で働いていた。で、Policeに会うためにニューヨークに行った。シェア・スタジアムでスティングにインタビューしたんだ。僕は、このプロデューサーのボビーOに電話をかけようと決めた。本当にボビーの音楽が好きだったんだ。そして、僕は彼に会いに行った。「レコードを作ろう。」と、彼は言った。僕たちは翌月、1983年8月にニューヨークに戻った。そして、スタジオで「West End Girls」の最初のバージョンを作った。つまり、1983年に僕たちは、イギリスのアーティストではなく、ニューヨークのレコード・アーティストだったんだ。ボビーOはArthur Baker(ミュージシャン、80年代を代表するDJの一人)に、僕たちがロンドンから来た最高にホットな奴らだと言った。Arthur Bakerは僕たちについて聞いていなかったので、彼はすごく当惑していたよ。
それは僕にとって2回目のニューヨーク行きだった。1回目はスマッシュ・ヒッツで働き始めたばかりの頃で、フィラデルフィアでGenesisにインタビューした。僕が初めてニューヨークに到着したとき、GenesisのMike Rutherfordが車を運転していた。ミッドタウン・トンネルで止まった時、ある車が僕たちに平行に止まって、「Planet Rock」(1982年のAfrika
Bambaataa & the Soulsonic Forceの曲、Arthur Bakerのプロデュース)をプレーしていた。僕は思ったよ「Wow!!」って(笑)。
Q:当時のニューヨークはいかがでしたか?
A:今とは完全に違ってた。怖かったね。いつも襲われると思えたんじゃないかな。ロンドンと比較するとね。ハプニングが起こっているようなすごく奇妙な空間があった。もっと明らかな風俗産業があったよね。大きなポルノ映画館が8thアベニューやタイムズスクエアの角のあたりにあって、いつもそれはその時の有名な映画のタイトルもじりの駄洒落だった。「9 1/2 Weeks(ナインハーフ)」という映画がやっていた時、そこでは「9 and a Half Inches(9.5インチ)」ってのがやっていたね(ウフフ)。その時のナイトクラブ事情は凄かった。
その頃、僕が驚いていたもう一のものは、MTVだ。僕たちは、その頃はMTV、24時間のミュージックビデオという考えはなかった。昼間に自分自身をテレビから引き離すことは、実に難しかっただろうね。それにもかかわらず、それは今では想像するのが不可能だ。僕たちはそこに座って、よくPat Benatar(NY出身のロック・シンガー)の無慈悲な「Love Is a Battlefield」(1983年、MTVミュージック・アワードで最優秀女性ビデオ受賞)を見ていたもんだ。
Q:イギリスと比べて、あなた方のファン層はここではどのくらい違いますか?アメリカではクラブ・ベースですか?それともゲイ?
A:そうだろうね。僕たちはアメリカでは完全に80年代だから。「Go
West」はアメリカではヒットしなかったんだよね。だから王道では、ペット・ショップ・ボーイズは「West
End Girls」と「Always on My Mind」をやる人たちなんだ。僕たちはアメリカのラジオでは3年間だけかかっていた。それを振り返ってみるとちょっと驚くでしょ。それから彼らが僕たちをかけるのを止めたから、僕たちはこのカルトなフォロワーを持っている存在に戻った。僕たちはそれ以来ずっと、本当にカルト的フォロワーを持ち続けている。L.A.、サンフランシスコ、ニューヨークでは根強い。たぶん、ゲイのオーディエンスは拡大しさえしている。
Q:ペット・ショップ・ボーイズの歌で政治的な内容は、いつも心を奪われました。でもあなた方が歌っている歌のいくつかは、とてもイギリス的です…。
A:うん、それはここでは、イギリスがアメリカのやり方で解釈される。「West End Girls」の僕のアイデアはGrandmaster Flash(NYのヒップ・ホップ・ミュージシャン)の「The Message」からインスパイアされた。でも僕は、イギリスのアクセントでそれをやるべきだと思った。そして、イギリスのアクセントでラップをやるのはすごく難しい。本能的にアメリカのアクセントでそれをやりたがるだろう。
僕たちが最初に「West End Girls」を作ったとき、ニューヨークでセッションをレコーディングしてスマッシュ・ヒッツに戻った。僕はそれらを違った3トラックでプレーした。その歌を演奏して、何だか困惑した。それからテープをだれかに貸したら、「ワオ、マジで良いね!」と、彼は言った。で、僕は「おお、君はそう思う?」と言ったんだよね(笑)。
そしていま、この歌は完全にトレードマークだ。タイムズスクエアのUniqueスタジオの技術者のアシスタントが「あなたお声はすごく好き。聴きやすい。」と言ったのを覚えている。僕は、いつもイギリス的なものがセールスポイントであると思っていた。もっとも、「West End Girls」がアメリカでナンバーワンになったとき、Paul
Wellerが一度、「おや、それはあまりにイギリス的過ぎると思うな。」と、言ったのを覚えている。Paul
Wellerはいつもイギリス的過ぎると言われていたような気がする。
Q:それで、「Se a Vida E」のようなトラックには、暖かくてユルいラテンのビートの間に、あなたの非常にパキっとした明確なブリティッシュ・ボーカルのコントラストがあります。
A:本当、ペット・ショップ・ボーイズは、音楽と僕の声の間のコントラストについてだ。ハイ・ドラマがのんびりと届けられる。以前から、僕が無表情だと言う人々のせいで、いつもいらいらしていたんだ。僕は、実際は歌に感情を入れようとしていたのだけど。僕の声がそういう風に聞こえるだけなんだ。僕の声には限界がある。Jocelyn Brown(アメリカのR&B黒人女性歌手)やだれかのように聞こえるようにはならない。
Q:あなた方が今までに、努力を試みたことは?
A:本当にないね。ノーだ。ダスティ・スプリングフィールドと一緒にレコーディングして、彼女から学んだ。彼女がどうやって、各フレーズを違ったように表現したかを知ることが出来るだろう。それは魅惑的で、僕にとっては完全に新しかった。
新しいアルバムに「Pandemonium」という歌にちょっとそれがある。その歌はケイト・モスとピート・ドハティの嵐のように激しい関係からインスパイアされた。最後のコーラスで、僕がメロディを無視してアップさせていくのに気付くだろう。「そこでダスティにチャネリングしたんだ。」と、僕はクリスに言った(笑)。
Q:80年代の子供時代、音楽とあなた方のイメージの不可思議さに私は魅了されました…。
A:うん、それは、僕たちが音楽に僕たちの関心事を入れるのを恐れていなかったからだろう。歌詞がそうだから、歌のいくつかは「Heart」のようなラヴリーなポップ・ソングだったということだ。「Left to My
Own Devices」にはとても珍しい歌詞がある。みんなそれが好きであると思う。僕はいつも好奇心をそそる音楽が好きだ。
僕が子供のころ、僕はBob Dylanの「Like a
Rolling Stone」や「Positively 4th Street」のような「ローリングストーン誌」のようなポップ・ソングが好きだった。言葉の使い方が、いつも好きだった。あと、Bryan Ferryの「Do the Strand」や「Virginia Plain」とか。僕がそのレコードを聞いたとき、Virginia
Plainがタバコのことだとは知らなかった。それが本当に重要でない事も知らなかった。ポップ・ミュージックは人々を教育できる。David Bowieがニーチェに関して話していたから、初めてニーチェについて聞いた(笑)。でも、かなりもったいぶった例だったね。それで僕は引用とかを入れることに関しては恐れたことがないんだ。
Q:あなたは、ポップ・ミュージックにはある種の限界の年代があると感じていますか?
A:う〜ん、それがあるなら、自分には適用しないね(笑)。それがアーティストのことではなく、聴衆のことについてだとわかるだろう。また、聴衆も年を取る。聴衆が年を取るなら、アーティストも年を取ってもいい。
Q:おそらく、キッズたちはまだバンドに入っていますよね?
A:先週、僕はウェールズにいて、有機野菜を買うためにファーム・ショップに行った。そしたらカウンターにいた男の子が、「あなたは彼ですよね?」と、言った。僕は「まあね。」と言った。「僕は本当に新しいものが好きです。」と彼は言った。僕は一緒にいた友人に言った。「”僕は本当に新しいものが好きです”と聞くのがどれくらい嬉しい事か、君にはわからないね。」って(笑)。
僕たちが最初にBrandon Flowersに会ったとき、彼が僕たちを知っていたアルバムは、実はここ最近の10年からだった。ずっと80年代のものだったけど、彼は2002年の「Release」を知っていた。このアルバムはあまりファッショナブルなアルバムでなかったけど、よくできたアルバムだと思う。
Q:1億枚のレコードをセールスしたのは、希少なグループだと思います。
A:う〜ん、それは明らかに真実じゃないな(笑)。アルバム・セールスは実際には3300万枚だと思う。
Q:しかし、レコードを数百万枚売ってもそれほど有名にならなかったら、耐えられなくなります…。
A:個人レベルでは、僕たちの名声は一度も変わったことはない。実際に、僕たちは80年代よりも、いまの方が認識されていると思う。時々、人々が僕だということがわからないのに驚くよ。もちろんクリスは全体的に変装をしている。帽子とサングラスでね。でも僕たちは、常にいいレベルで認知されている。時々、人々は腹立たしい事を言うよ。
Q:例えば?
A:例えば…タクシー運転手が僕に言った。「いま何をしているんだい、ニール。君は引退しないと思っていたよ。」僕は言った。「Top of the Popsまで行ってくれ。」とね。
終わり