PLEASE1-

West End girls

westendgirls
 westeng
(1884/1985)


クリス:この曲のおかげで国際的な大物アーティストになれた
(
一言コメント:1999)

 

 


原文歌詞はこちらでご確認ください



時々、君は死んだ方がまし
銃を手にし、こめかみには銃口が当てられている
気がヘンになったようだと思っている
イスを蹴飛ばし、テーブルをひっくり返す
ウエスト・エンドのレストランで
警察を呼べ!おかしなやつがいる
アンダーグラウンドに走り下りる
ウエスト・エンドのダイヴ・バーに

世界のどん詰まりのウエスト・エンド
イースト・エンドの男たちと、ウエスト・エンドの女たち
世界のどん詰まりのウエスト・エンド
イースト・エンドの男たちと、ウエスト・エンドの女たち
ウエストエンド・ガールズ

闇や影からささやく声がする
ポスターにはたくさんの顔
どう?いつ?なぜ?なに?
いくらもらった?
手に入れたか?欲しいのか?
しょっちゅうか?
どっちを選ぶんだ?
ソフトなヤツか?キクやつか?
(どのくらい欲しいんだ?)

世界のどん詰まりのウエスト・エンド
イースト・エンドの男たちと、ウエスト・エンドの女たち
世界のどん詰まりのウエスト・エンド
イースト・エンドの男たちと、ウエスト・エンドの女たち
ウエスト・エンド・ガールズ

(君は誰も知らない場所を見つける
そこではお金がモノを言う、金のなる道
全てのドアには誰かが立っている
もし彼等が喋れば、無法地帯

(でかいことができる)
(でかいことができる)

尋ねてごらんよ、無表情で
新聞を読みページをめくり
いろいろなゲームをやっているのを見る
そして誰も君の名を知らない

誰も君の名を知らない)


世界のどん詰まりのウエスト・エンド
イースト・エンドの男たちと、ウエスト・エンドの女たち
世界のどん詰まりのウエスト・エンド
イースト・エンドの男たちと、ウエスト・エンドの女たち
ウエスト・エンド・ガールズ

君はガラスか石かどっちのハートか?
僕が家まで送るから、待っていろ
君には過去も未来もない
終わりのない今日しかない
どこの街でも、どの国でも
ジュネーヴ湖でも、フィンランド駅でも
(
どのくらい遠くに来た?)

世界のどん詰まりのウエスト・エンド
イースト・エンドの男たちと、ウエスト・エンドの女たち
世界のどん詰まりのウエスト・エンド
イースト・エンドの男たちと、ウエスト・エンドの女たち
ウエスト・エンド・ガールズ


Written by Neil Tennant/Chris Lowe

Produced by Bobby Orland(1984)
Produced by Stephen Hague(1985)


ニール:「West End girls」は、1982年にリリースされたグランドマスター・フラッシュによる「Message」によって完全にインスパイアさせられたラップとして書き始められた。僕は近代市に住む圧力の全体構想は非常に好きで、僕はイギリスのアクセントでこの音楽に乗せてラップを書くと決めた。クリスと僕は、いつものレイ・ロバーツのカムデン・スタジオで音楽を書いていた。クリスのローズ・ピアノのある終わりに、どこが想的な響きはあったけどオリジナルの音楽はさほど出来がよくなかった。その時は、2人ともすごくいいと思っていた。ノッティンガムの郊外の僕のいとこ・リチャードの家にいたとき、僕はラップを書き始めた。 彼と僕はテレビであるジェームス・ギャグニーのギャング映画を見ながら、寝ずに起きていた、そして、1時頃に寝た。 僕は彼の子どもの部屋の小さなシングルベッドで寝ていたんだけど、「時々、君は死んだ方がまし/銃を手にし、こめかみには銃口が当てられている」という歌詞が何故か浮かんできた。僕はベッドから出て、次の2行の歌詞を紙に書きとめた。それから、キングス・ロードの自分のアパートに戻って、ある夜、床に横たわって、最後の歌詞以外の全体を書いた。翌日、僕たちはレイ・ロバーツのスタジオにいた。そして、言った。「僕らはこのラップをレコーディングすべきだと思う、僕はアイデアがあるんだ」と。僕は全部クリスとレイ・ロバーツに、膝を叩きながら話した。それから、文字通り最初にボビー“O”とレコーディングにニューヨークに行く2,3日前、僕がピアノを弾いて、クリスがキーボードを弾いて、インストゥルメンタルを書いた。僕が何年か前に書いたこのコード・チェンジで始まり、クリスがバスラインで追いつく。・・・僕らの最初の弾むようなバスラインだ。僕はテープに撮って家に持ち帰り、僕が書いたラップを言うことができ、コーラス・チューンを歌うことができ、次に、続くバスラインで「West・・・End・・・girls」と続けることができるとわかった。床に座って最後の歌詞を書いて、小さなテープを作った。ボビー“O”と一緒にスタジオに入ったとき彼は、2つのキーボードの後ろにいる僕らの横にいた。僕はクリスに「ラップ、わかるだろ」と言い、僕はそれをやった。それが、僕が歌った最初のときだね。自分でつぶやくことくらいはしたことがあったけど。

クリス:エンジニアは“ポップコーン“を作った・・・。

ニール:ジョルジオ・モロダー、クラフトワークの前の初めてのシンセサイザー・ヒットだ。スティーブ・ジェロームが呼ばれた。翌日ボビー”0”が、デヴィッド・ボウイの「Let's Dance」からドラム音を得たところでオーバーダブをした。エミュレーターでライブ演奏し、彼はコーラスもエミュレーターで演奏した。 僕らが最初にボビー“O”のエミュレーターを聞いたとき、僕たちはこの男性グレゴリオの聖歌隊のサウンドがとても好きだった。

クリス:ニュー・オーダーは「ブルー・マンデー」で既にそれを使っていた。すごくうるさいけど。

ニール:エンジニアの発言を思い出すよ、「おお、へえ〜、君の声は聞きやすい・・・」。

クリス:パーロフォンにサインした後、再び「West End girls」をリリースしたかったんだけど、オリジナルの録音を持っていなかったから、僕たちはそれを再録しなければならなかった。スティーヴン・ヒューグは、僕たちがそれをスローダウンするべきと決定した。彼はそれをもっとムーディにしたかった。オリジナルのものに似ているけど、遅い。

ニール:僕たちはより付帯的な雑音を加えた。--僕たちには、映画的に聞こえる音楽を作りたかったという一般論がある。 僕たちの提案はリアルな音を曲に持ち込みたかったので、最初に通りを歩いている人々を記録することだった。 僕たちは交通音を記録した。 スタートで、スティーヴン・ヒューグがDATを持ってアドヴィジョン・スタジオの外の通りを歩きながらレコーディングされた音が聞こえる。

クリス:幸いにも、女の子がピンヒールで通りを歩いていた。

ニール:注意深く聞けば、女の子が005“で「
it's Sting」だか何だかって言うのを聞ける。

クリス:スティーヴン・ヒューグがスティングのような音だってんで。

ニール: オリジナルバージョンには、4番まで歌詞があったけど、僕たちは、それを3番まで減らすると決めた。3番目の詞の終わりを4番目の詞の始まりとくっつけて、3番の詞「I've said it all before and I'll say it again/we're all modern men」から、4番の詞「All your stopping, stalling and starting/who do you think you are-Joe Stalin?」にスキップする。最初の詞とは別にこのバージョンは、詞の終わりにギャップを残した。僕たちかスティーヴン・ヒューグのどちらかが、誰かにそこで歌わせるのを提案した。スティーヴン・ヒューグはヘレナ・スプリングスを提案した。

クリス:ヘレナ・スプリングスは、いつも僕のお気に入りの女性バッキング・ヴォーカルだ。

ニール:僕は、どの言葉を歌うべきであるか彼女に伝えて、彼女にチューンを示した。彼女はファンタスティックで厳然だ。それからトランペット・ソロを加えた。それはスティーヴン・ヒューグのエミュレーターのトランペット・サンプルだ。

クリス:彼は、そうやって時間を費やした。本当にいいソロだよ。ほとんどのトランペット・プレーヤーよりずっといい。

ニール:すべてのエミュレーター・コーラスはボビー”O“のオリジナルバージョンからだ。ボビー”O“はもともとそれを演奏していた。ボビー”O“のような音は入れたくなかったので、僕とクリスは愚かにもそれを残しておかなかったんだ。でもスティーヴン・ヒューグは「いや、とてもいいから残そう」と、賢明に言った。新しいバージョンはオリジナルと最初から最後まで違っていた。全部のレコーディングはちょうど1週間、月曜日から金曜日までの5日かかった。ようやく、金曜日の晩に終わった、そして、僕たちはそれが絶対に完璧に素晴らしいと思った。僕らはそれをEMIに提出したけど、彼らは心配していた。僕らは「いえ、素晴らしいんです。」と言わねばならなかった。1986年にUKでナンバー1になり、それからアメリカでもナンバー1になった。「West End girls」は論証上、アメリカで最初にナンバー1になったラップなんだ。クリスと僕は、フランク・ロザックと12インチミックスをやった。彼はニューヨークからの技術者だ。安かったので、僕たちは夜スタジオに入った。 僕たちは当時そんなに満足じゃなかったんだけど、そのミックスはアメリカでナンバーワンのダンスレコードになった。 多くの人々が歌が売春婦に関するものであると思った。もちろん、そんなこと僕の頭の中にすらなかったけど。これは階級を意味するんだ。荒れた少年たちにとっての、ちょっとした上品さを得ることだ。正反対のもの・・・西/東、労働者階級/上流階級、富/貧困、仕事/遊び・・・。そして、エスケープに関する考え。僕らの曲には逃げることに関してたくさんのことがあるね。いつもロシアの歴史に関心があったから、ロシアのことがちょっと入っている。このアイデアは、歌が東から西に「ジュネーヴ湖からフィンランド駅」行くことだ。レーニンが閉じ込められた列車での歴史的なトリップだ。僕とクリスは、ロンドンのレスター・スクエアの近くのウエスト・エンドが大好きだったね。スキン・ヘッドがいっぱいいるし、おしゃれな女の子も多いよ。以前は大いにナイト・クラビングでよく出かけたものだった。で、僕たちは、歌に引用したジェラード・ストリートのDive Barに行った。 そこは地下にあって、湿っぽい。そして、バーテンと話しているゲイ・カップルのような奴ら以外に誰もいないんだけど、僕たちはすごく魅せられていたね。 バーテンは以前よくシャーリー・バッセイ、バーブラ・ストライサンド、バリー・マニロウを演じていた。 僕たちは、そこにはしょっちゅう行っていたよ。

 (
以上、2001年ブックレットより)


 


ニール:仕上げるのに永遠とも思える時間がかかった曲。1970年代にトットナムに住んでいた頃、古いピアノを持っていたんだ。20ポンドで買った安物だけど。それでギター・コードを元にピアノを覚えた。当時バリー・ホワイトが人気で。ちょっとしたコード・チェンジをしては、バリー・ホワイトに似てるって悦に入っていた。何年の後に、クリスとスタジオにいた時、彼がEのコードで何かを弾いていたんだ。で。僕が2つの“バリー・ホワイト・コード”を弾いて、クリスが“dum,dum,dum,didumty,dum,dum”と節をつけた。インストゥルメンタルで作ったカセットを家に持ち帰って、自分で書いたラップのことを思い出したんだ。80年代初頭の僕たちは、ラップに入れあげていた。Grandmaster FlashとかThe Messageとか。覚えている?で、The Message風のラップを書いていたんだけど、持ち帰ったカセットのコード展開に、“In a West End town, dead end world”っていう詩が合うことに気づいたんだ。「これはいい」って思った。それで、初めてボビー“O”とスタジオに入った。これが彼との最初の作品だ。僕たちはコードを弾き始め、クリスがベース・ラインを演奏した。
 
クリス:彼はただ一言、「やれよ」って言ったんだ。僕は「何?」って聞き返したよ。全部プログラミングするもんだと思っていたから。でも「いいからスタジオでプレイしろ」って。
 
ニール:そんなの初めてだった。僕はそこに突っ立って、ただコードをプレイした。クリスが例の“dum,dum,dum,didumty,dum,dum”をやって、コントロール・ルームにいた全員が、これはいい!って。
 
クリス:言っとくけど、僕はキーボード・プレイヤーじゃないからね(笑)。
 
ニール:で、僕はクリスに言った。「僕たち何やってんだろう?ところであのラップだけど、この曲にぴったりなんだ」。するとボビー“O”が言った。「オーケイ、ヴォーカル入れて」。そこで僕が・・・。
 
クリス:彼は「ビリー・ジーン」のドラム・パターンをプログラミングしていたんだ。
 
ニール:そう、彼は「ビリー・ジーン」のドラム・パターンをプログラミングしていた。“Oompah,oompah”ってやつ。で、僕が続けてコーラスを歌うと、みんな口を揃えて「これはいいよ」って言った。全員が「こいつは本当にイケる」って感じていた。で、すごく時間はかかったけど、出来上がった楽曲をイギリスに持ち帰って、友人たちに聴かせたんだ。でもこの曲だけは僕のラップがマヌケに聴こえるんじゃないかと思って誰にも聴かせなかった。

クリス:それは本当。裏面はみんなに聴かせたんだけど。
 
ニール:「ペット・ショップ・ボーイズ」

クリス:「ペット・ショップ・ボーイズ」
 
ニール:とてもヒップ・ホップ的なやつ。アメリカではナンバー1になった。今でもお気に入りの作品だ。どこか謎めいていて、意味合いを考えてしまうような。この曲が歌っているのは、夜の街に出かけていくこと。「ニューヨーク・シティ・ボーイ」と変わらない。夜の街に出て、人生のプレッシャーから逃れることを歌った曲だ。書いている最中は、トットナムに住んでいた学生時代のことを考えていた。トットナムでの暮らしは厳しかったけど、けっこう気に入っていたんだ。デッキ・シューズにオックスフォード地のズボンでめかしこんで、セヴン・シスターズの地下鉄までバスに乗って、エスカレーターで地下に潜って、オックスフォード・サーカスで地上に出る。すごくエキサイティングだった。そこはもう街だ。ニューカッスルから出てきたばかりの人間にして見れば、ものすごくエキサイティングだったよ。みんなオシャレしてね。そんなことも、この曲に関係していると思う。

 (
以上、2003年「POPART」ブックレットより)


 

プロモーションビデオ(You Tube)




TVライブ(1984年ベルギー)(You Tube)



PSB
キャリアの中で、一番最初にTVで演奏された貴重な映像。ヒットする前のファースト・バージョン。

ライブ(2006年ライブ8)(You Tube)



ちょっと珍しいロックバンドスタイル

1985
年シングルはUKチャート最高1



クリス:イースト・エンドの店だ。行きつけの店だよ
―彼は?
ニール:地元の若者(イースタン・ボーイ)。例のコートだ。あの犬の飼い主は?撮影後、パブに来たよね。ホームレスが一緒に歩き出すんだ。笑ってしまって、何度も撮り直した。
―なぜクリスは透明なの?
クリス: クールだろ?
ニール:この髪形は嫌いだ。たれた前髪がうざったい。
クリス:僕は満足さ
ニール:農家の夫婦を描いた絵画「アメリカン・ゴシック」を想像させる図だよ
クリス:リヴァプール・ストリート駅だ。“!”の形のネオン
ニール:歩き回る作品だ。アメリカ人好みのガイド的ビデオで評判は上々だった
クリス:当時は注目されずに歩き回れたが今は無理だ
―絶対にね
ニール:目に止まる場面だ
―ほら、スキップするぞ
ニール:イエ〜イ
―素晴らしいね
ニール:無愛想だ。それが流行だった
―アートか・・・ロンドン美人たち・・・許可をもらわずに撮影したね
ニール:見つかったら訴えられるかも。アパルトヘイト撤廃前の南アフリカ大使館だ
―何年も抗議デモが
ニール:15年続いていた
クリス:ピアノ・バーだ
ニール:気がつかなかった
クリス:よく通っていた
ニール憧れの場所だったな
―この頃は表情が暗いね
ニール:カメラ映りに自身がなくて・・・信じられないよね
―面白かった

聞き手―クリス・ヒース

 (
以上、2003POPART/DVDコメントより) PV監督・・・Andy Morahan & Erick Watson

 

 

★用語・人物メモ★

ウエスト・エンド・・・ロンドンの中心街を表す地名。PSBがデビュー前に名乗っていたユニット名でもある。ただ単に“ウエスト・エンド”と言えば、ニューヨークの“ブロード・ウェイ”のように、演劇界のことを指す。

イースト・エンド・・・ロンドンの東側、下町にあたる。移民や地方出身者が住みついて、ヴィクトリア時代には切り裂きジャックの暗躍した貧民街だった。今でもインド・パキスタン系の店が多く、かなり庶民の町であるが、同時に、家賃の安さから多くのアーティストがアトリエをかまえ、最先端アートの発信地でもある。

ジュネーヴ湖、フィンランド駅・・・マルクス主義活動家としての行動によって逮捕・流刑・国外追放されていたレーニンは、1900年に刑期を終えて、妻とともにヨーロッパに亡命し、パリ、ロンドン、ジュネーヴ、フィンランドを巡っている。フィンランド駅前では演説もしている。その後、ドイツで政治新聞を発行し、以後、共産党を結成。

Grandmaster Flash
・・・本名Joseph Saddler(1958-)。アメリカのヒップ・ホップ・ミュージシャン。

ローズ・ピアノ・・・Rhodes pianoエレクトロニック・ピアノ。

エミュレーター・・・Emulator・・・コンピュータ機械の模倣装置あるいは模倣ソフトウェアのこと。

ジェームス・ギャグニー(1899-1986)・・・James Francis Cagney, Jr・・・歌って踊れるアメリカのギャング役を得意とした俳優。1942『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』でアカデミー主演男優賞受賞。

スティング(1955-)・・・ニューカッスル出身のミュージシャン。The Policeのヴォーカル。ニールの高校の4年先輩。

I've said it all before and I'll say it again/we're all modern men」・・・「前に言ったじゃないか、じゃあ、もう一度言うよ/僕らはみんな現代人だ」

All your stopping, stalling and starting/who do you think you are-Joe Stalin?」・・・「みんな止まり、留まり、動き出す/君は何様だ・・・スターリンか?」

ポップコーン・・・
ガーション・キングスレイによる1969年のアルバム。テクノの元祖と言われる。

ジョルジオ・モロダー(1940-)・・・イタリア人音楽プロデューサー。ドナ・サマーを世に送り出した、ディスコの父。

クラフトワーク・・・ドイツのカリスマ・テクノバンド。結成は1970年。

デヴィッド・ボウイの「Let's Dance」・・・1983年の14番目のアルバム。ボウイの、より大衆的なロック/ポップ路線が進んだ一枚。

男性グレゴリオの聖歌隊のサウンド・・・ドイツのミュージシャン、エニグマが「サッドネス・パート1」(90)で゙サンプリングして以来、ポップ・ミュージック界で広まったような気がする。

ニュー・オーダー・・・イギリスを代表するエレクトロ・ポップ・バンドのひとつ。「ブルー・マンデー」(
83)は前身であるジョイ・デビジョンのイアン・カーティスが自殺した月曜日を題材にしている(2007年公開の映画「コントロール」で描かれている)。現在はメンバーの確執で解散するかどうかもめている。

レスター・スクエア・・・ロンドンのほぼ中心地にある広場で、地下鉄の駅名。スクエア内には劇場・コンサートの当日チケットを半額で売る、市内唯一の公的ブースがある。近隣は劇場、飲み屋、ディスコ、チャイナタウン、ゲイタウンなど、夜に楽しい町。

ジェラード・ストリート・・・ロンドンのソーホー、チャイナタウンの中にある。Dive Bar(48,Gerrard St.)は、2004年に惜しまれつつ閉店(店のガイドには「West End girls」のモデルであることが記されている)。なんと、イレイジャーのアンディ・ベル(オープンリー・ゲイ)はここのバーテンだったという・・・ニールの話に出てきたものまねバーテンじゃないよね?・・・まあ、間違いなくゲイの集まるところだったようで。まあ、ソーホーのバーと言ったら、たいがい客の半分がゲイだけど。

シャーリー・バッセイ(1937-)…イギリスのシンガー。007シリーズの「ゴールド・フィンガー」のテーマ曲で有名。2009年のアルバム「
The Performance」に、PSBの書いた曲「The Performance of My Life"  」が収録されている。

バーブラ・ストライサンド(1942-)・・・アメリカの歌手、女優。ゲイの憧れの大女優。

バリー・マニロウ(1943-)・・・数々のヒット曲を歌う、アメリカの歌手。

バリー・ホワイト(1944-2003)・・・アメリカのソウル歌手。

「ビリー・ジーン」・・・マイケル・ジャクソンの1983年のヒット曲。大ヒットアルバム「スリラー」からのシングル・カット。レーベルはエピック。

「ペット・ショップ・ボーイズ」・・・エピック時代の最初の「West End Girls」「One more chance」のB面。売れない時代のシングルで、アルバム未収録なので、けっこう幻かも。“The”がついていたりいなかったり、“テーマ・オブ・PSB”だったりと、ジャケやバージョンによって表記が定まらない。どっちなんだい!?

トットナム
Tottenham・・・ロンドンの北に位置。サッカー・プレミアリーグのチーム、トットナム・ホットスパーFCの本拠地で有名。セヴン・シスターズ地下鉄駅はヴィクトリア・ラインでオックスフォード・サーカス駅まで6駅、約30分。

「アメリカン・ゴシック」・・・グラント・ウッドにより1930年に描かれた絵。シカゴ美術館(アート・インスティチュート・オブ・シカゴ)所蔵。




 「West End girls」は、誰がなんと言っても“もっともPSBPSBたる代表曲“であると確信している。あの印象的なストリングス。冷たく乾いたロンドンの風、逃げてきてこれからも漂流する男、ドラッグ、ゲイ・クラブ、男と女の境界線、社会主義の傾倒、皮肉、愛・・・23年経っても全く変わらず新しいまま、全く古臭くならないなんて、奇跡かもしれない。そしてマーガレットは多感な17歳のときにこの曲に出会うという個人的体験そしているから、さらに思い入れが強いのである・・・実際のロンドンに行くまで、ワタシの脳内ロンドンはまさに彼らのイメージ(もちろんPV)であった。
 よく言えばPSBはこの奇跡的な名曲から全てが始まっているし、悪く言えばこの曲を超えるのは難しいのかもしれない。それほど偉大な曲だと思う。歌詞の内容がやや比喩っぽくて、わかりづらいのが難点だけど(実際、今でも解釈が難しいと思う)、当時20代後半の、有名人でなかったニールの心の葛藤を見ているようで興味深い。タイトルでありながら、実際にWest Endgirlsが歌詞の中の
にほとんど絡んでいないが。



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