Produced by Bobby Orland(1984)
Produced by Stephen Hague(1985)
ニール:「West End girls」は、1982年にリリースされたグランドマスター・フラッシュによる「Message」によって完全にインスパイアさせられたラップとして書き始められた。僕は近代都市に住む圧力の全体構想は非常に好きで、僕はイギリスのアクセントでこの音楽に乗せてラップを書くと決めた。クリスと僕は、いつものレイ・ロバーツのカムデン・スタジオで音楽を書いていた。クリスのローズ・ピアノのある終わりに、どこが空想的な響きはあったけどオリジナルの音楽はさほど出来がよくなかった。その時は、2人ともすごくいいと思っていた。ノッティンガムの郊外の僕のいとこ・リチャードの家にいたとき、僕はラップを書き始めた。 彼と僕はテレビであるジェームス・ギャグニーのギャング映画を見ながら、寝ずに起きていた、そして、1時頃に寝た。 僕は彼の子どもの部屋の小さなシングルベッドで寝ていたんだけど、「時々、君は死んだ方がまし/銃を手にし、こめかみには銃口が当てられている」という歌詞が何故か浮かんできた。僕はベッドから出て、次の2行の歌詞を紙に書きとめた。それから、キングス・ロードの自分のアパートに戻って、ある夜、床に横たわって、最後の歌詞以外の全体を書いた。翌日、僕たちはレイ・ロバーツのスタジオにいた。そして、言った。「僕らはこのラップをレコーディングすべきだと思う、僕はアイデアがあるんだ」と。僕は全部クリスとレイ・ロバーツに、膝を叩きながら話した。それから、文字通り最初にボビー“O”とレコーディングにニューヨークに行く2,3日前、僕がピアノを弾いて、クリスがキーボードを弾いて、インストゥルメンタルを書いた。僕が何年か前に書いたこのコード・チェンジで始まり、クリスがバスラインで追いつく。・・・僕らの最初の弾むようなバスラインだ。僕はテープに撮って家に持ち帰り、僕が書いたラップを言うことができ、コーラス・チューンを歌うことができ、次に、続くバスラインで「West・・・End・・・girls」と続けることができるとわかった。床に座って最後の歌詞を書いて、小さなテープを作った。ボビー“O”と一緒にスタジオに入ったとき彼は、2つのキーボードの後ろにいる僕らの横にいた。僕はクリスに「ラップ、わかるだろ」と言い、僕はそれをやった。それが、僕が歌った最初のときだね。自分でつぶやくことくらいはしたことがあったけど。
クリス:パーロフォンにサインした後、再び「West End girls」をリリースしたかったんだけど、オリジナルの録音を持っていなかったから、僕たちはそれを再録しなければならなかった。スティーヴン・ヒューグは、僕たちがそれをスローダウンするべきと決定した。彼はそれをもっとムーディにしたかった。オリジナルのものに似ているけど、遅い。
ニール: オリジナルバージョンには、4番まで歌詞があったけど、僕たちは、それを3番まで減らすると決めた。3番目の詞の終わりを4番目の詞の始まりとくっつけて、3番の詞「I've said it all before and I'll say it again/we're all modern men」から、4番の詞「All your stopping, stalling and
starting/who do you think you are-Joe Stalin?」にスキップする。最初の詞とは別にこのバージョンは、詞の終わりにギャップを残した。僕たちかスティーヴン・ヒューグのどちらかが、誰かにそこで歌わせるのを提案した。スティーヴン・ヒューグはヘレナ・スプリングスを提案した。
ニール:すべてのエミュレーター・コーラスはボビー”O“のオリジナルバージョンからだ。ボビー”O“はもともとそれを演奏していた。ボビー”O“のような音は入れたくなかったので、僕とクリスは愚かにもそれを残しておかなかったんだ。でもスティーヴン・ヒューグは「いや、とてもいいから残そう」と、賢明に言った。新しいバージョンはオリジナルと最初から最後まで違っていた。全部のレコーディングはちょうど1週間、月曜日から金曜日までの5日かかった。ようやく、金曜日の晩に終わった、そして、僕たちはそれが絶対に完璧に素晴らしいと思った。僕らはそれをEMIに提出したけど、彼らは心配していた。僕らは「いえ、素晴らしいんです。」と言わねばならなかった。1986年にUKでナンバー1になり、それからアメリカでもナンバー1になった。「West End girls」は論証上、アメリカで最初にナンバー1になったラップなんだ。クリスと僕は、フランク・ロザックと12インチミックスをやった。彼はニューヨークからの技術者だ。安かったので、僕たちは夜スタジオに入った。 僕たちは当時そんなに満足じゃなかったんだけど、そのミックスはアメリカでナンバーワンのダンスレコードになった。
多くの人々が歌が売春婦に関するものであると思った。もちろん、そんなこと僕の頭の中にすらなかったけど。これは階級を意味するんだ。荒れた少年たちにとっての、ちょっとした上品さを得ることだ。正反対のもの・・・西/東、労働者階級/上流階級、富/貧困、仕事/遊び・・・。そして、エスケープに関する考え。僕らの曲には逃げることに関してたくさんのことがあるね。いつもロシアの歴史に関心があったから、ロシアのことがちょっと入っている。このアイデアは、歌が東から西に「ジュネーヴ湖からフィンランド駅」行くことだ。レーニンが閉じ込められた列車での歴史的なトリップだ。僕とクリスは、ロンドンのレスター・スクエアの近くのウエスト・エンドが大好きだったね。スキン・ヘッドがいっぱいいるし、おしゃれな女の子も多いよ。以前は大いにナイト・クラビングでよく出かけたものだった。で、僕たちは、歌に引用したジェラード・ストリートのDive Barに行った。 そこは地下にあって、湿っぽい。そして、バーテンと話しているゲイ・カップルのような奴ら以外に誰もいないんだけど、僕たちはすごく魅せられていたね。
バーテンは以前よくシャーリー・バッセイ、バーブラ・ストライサンド、バリー・マニロウを演じていた。 僕たちは、そこにはしょっちゅう行っていたよ。
(以上、2001年ブックレットより)
ニール:仕上げるのに永遠とも思える時間がかかった曲。1970年代にトットナムに住んでいた頃、古いピアノを持っていたんだ。20ポンドで買った安物だけど。それでギター・コードを元にピアノを覚えた。当時バリー・ホワイトが人気で。ちょっとしたコード・チェンジをしては、バリー・ホワイトに似てるって悦に入っていた。何年の後に、クリスとスタジオにいた時、彼がEのコードで何かを弾いていたんだ。で。僕が2つの“バリー・ホワイト・コード”を弾いて、クリスが“dum,dum,dum,didumty,dum,dum”と節をつけた。インストゥルメンタルで作ったカセットを家に持ち帰って、自分で書いたラップのことを思い出したんだ。80年代初頭の僕たちは、ラップに入れあげていた。Grandmaster FlashとかThe
Messageとか。覚えている?で、The
Message風のラップを書いていたんだけど、持ち帰ったカセットのコード展開に、“In a West
End town, dead end world”っていう詩が合うことに気づいたんだ。「これはいい」って思った。それで、初めてボビー“O”とスタジオに入った。これが彼との最初の作品だ。僕たちはコードを弾き始め、クリスがベース・ラインを演奏した。 クリス:彼はただ一言、「やれよ」って言ったんだ。僕は「何?」って聞き返したよ。全部プログラミングするもんだと思っていたから。でも「いいからスタジオでプレイしろ」って。 ニール:そんなの初めてだった。僕はそこに突っ立って、ただコードをプレイした。クリスが例の“dum,dum,dum,didumty,dum,dum”をやって、コントロール・ルームにいた全員が、これはいい!って。 クリス:言っとくけど、僕はキーボード・プレイヤーじゃないからね(笑)。 ニール:で、僕はクリスに言った。「僕たち何やってんだろう?ところであのラップだけど、この曲にぴったりなんだ」。するとボビー“O”が言った。「オーケイ、ヴォーカル入れて」。そこで僕が・・・。 クリス:彼は「ビリー・ジーン」のドラム・パターンをプログラミングしていたんだ。 ニール:そう、彼は「ビリー・ジーン」のドラム・パターンをプログラミングしていた。“Oompah,oompah”ってやつ。で、僕が続けてコーラスを歌うと、みんな口を揃えて「これはいいよ」って言った。全員が「こいつは本当にイケる」って感じていた。で、すごく時間はかかったけど、出来上がった楽曲をイギリスに持ち帰って、友人たちに聴かせたんだ。でもこの曲だけは僕のラップがマヌケに聴こえるんじゃないかと思って誰にも聴かせなかった。
ジェラード・ストリート・・・ロンドンのソーホー、チャイナタウンの中にある。Dive Bar(48,Gerrard St.)は、2004年に惜しまれつつ閉店(店のガイドには「West End girls」のモデルであることが記されている)。なんと、イレイジャーのアンディ・ベル(オープンリー・ゲイ)はここのバーテンだったという・・・ニールの話に出てきたものまねバーテンじゃないよね?・・・まあ、間違いなくゲイの集まるところだったようで。まあ、ソーホーのバーと言ったら、たいがい客の半分がゲイだけど。
シャーリー・バッセイ(1937-)…イギリスのシンガー。007シリーズの「ゴールド・フィンガー」のテーマ曲で有名。2009年のアルバム「The Performance」に、PSBの書いた曲「The Performance of My Life" 」が収録されている。
「ペット・ショップ・ボーイズ」・・・エピック時代の最初の「West End Girls」「One more chance」のB面。売れない時代のシングルで、アルバム未収録なので、けっこう幻かも。“The”がついていたりいなかったり、“テーマ・オブ・PSB”だったりと、ジャケやバージョンによって表記が定まらない。どっちなんだい!?
「West End girls」は、誰がなんと言っても“もっともPSBがPSBたる代表曲“であると確信している。あの印象的なストリングス。冷たく乾いたロンドンの風、逃げてきてこれからも漂流する男、ドラッグ、ゲイ・クラブ、男と女の境界線、社会主義の傾倒、皮肉、愛・・・23年経っても全く変わらず新しいまま、全く古臭くならないなんて、奇跡かもしれない。そしてマーガレットは多感な17歳のときにこの曲に出会うという個人的体験そしているから、さらに思い入れが強いのである・・・実際のロンドンに行くまで、ワタシの脳内ロンドンはまさに彼らのイメージ(もちろんPVも)であった。 よく言えばPSBはこの奇跡的な名曲から全てが始まっているし、悪く言えばこの曲を超えるのは難しいのかもしれない。それほど偉大な曲だと思う。歌詞の内容がやや比喩っぽくて、わかりづらいのが難点だけど(実際、今でも解釈が難しいと思う)、当時20代後半の、有名人でなかったニールの心の葛藤を見ているようで興味深い。タイトルでありながら、実際にWest Endのgirlsが歌詞の中の”君”にほとんど絡んでいないが。