RELEASE2-5


Searching for the face of Jesus

 


原文歌詞はこちらでご確認ください



彼は、君に少しは信頼があったかどうか信じていた
君は雨を止めることができた
彼は、君が少しは愛を得たかどうかと信じていた。
それは痛みを軽くするだろう
それでも、彼は苦しんでいる

ジーザスの顔を捜し求めて
僕たちが必要とする光を探す
ジーザスの顔を捜し求めて
僕たちが流した血で塗られている

巨大なスイミング・プールの端に立つ
神秘主義の本を持って
奴らとたむろして、愚かにふるまう
ファルーク王のように太っている
でも彼は我慢しているようだ

ジーザスの面影を捜し求めて
テネシー、メンフィスのダウンタウンを
ジーザスの面影を捜し求めて
科学はミステリー

時々危機一髪で逃れることがある
彼らは来て、去って行く
彼のママのお墓の花を新しく保ち
彼女に話しかける・・・

ジーザスの顔を捜し求めて
僕たちが必要とする光を探す
ジーザスの顔を捜し求めて
僕たちが流した血で塗られている

ジーザスの面影を捜し求めて
テネシー、メンフィスのダウンタウンを
ジーザスの面影を捜し求めて
科学はミステリー


Written by Neil Tennant/Chris Lowe


Produced by Pet Shop Boys


*この曲には現在のところ本人たちの公式コメントがありません。見つかり次第アップします(もしご存知でしたら教えて下さい)。

*以下はアメリカのファン・マスターWayneさんのサイトの曲説明を訳したものです。
http://www.geowayne.com/psbhtml.htm

 PSBの全文献において、もっとも好奇心をそそるタイトルのひとつであることを誇り、RELEASEセッションからのこのミッドテンポのアウトテークは、ニールによると、“アコースティック的なもの”として始まった。しかし、後にそれはさらに手の込んだものとなる。この曲はアルバムに入れられることを真剣に考えられたが、最終的にはカットされた。内容に関しては、ニールは、この歌がエルビス・プレスリーに関係があると確認した。したがって、「テネシー、メンフィスのダウンタウン」(エルビスはその都市の最も有名な居住者であった)を引用している。プレスリーが、グレースランドの彼のトイレの上に座ったまま急死したとき、1972年のトリノの聖骸布に関するフランク・O・アダムスの本「A Scientific Search for the Face of Jesus」を読んでいたというのは記録された事実だ。この歌は"「プレスリー主義」(通称"Elvisianty")、現代の準宗教について暗示しているかもしれない。

 追加水準で調べれば、それは様々な意味で「Birthday Boy」の姉妹編に思える。 そのRELEASEトラックのように、歌詞は、イエス(信頼と愛の迫害された手本)が、痛められ、乱用され、捨てられる人々の形態は、現代の世界で苦しみ続けるのを示す。 すべての苦しみの中に、人々は彼らがどう自分達の生活を送るべきであるかにおける意味と指導を捜し求めている:「僕たちが必要とする光を探す。」少なくとも、ニールのカトリックの教育のある様相が数年間の明白な不履行の後に再浮上しているということでありえるだろうか? 彼が、今までに書いた最も恐ろしい歌詞の1つ、イエスの顔は「僕たちが流した血で塗られている」歌う。 また、歌のアレンジメントもかなり顕著だ。特につなぎのインストはわずかで (そしてうきうきするような)、チーキーなアコーディオン、そして/または、ハルモニウム(おそらくシンセかサンプラー)だ。


 

イメージビデオ(アンオフィシャル)(You Tube)





★用語・人物メモ★

ファルーク王(1920-1965)・・・エジプト王ファルーク1世。エジプト最後の王。贅沢な暮らしで晩年に太った。

エルビス・プレスリー(1935-1977)・・・アメリカ・メンフィス出身のカントリー&ロックスター。数々の伝説を残す。エルビス没後10周年記念番組の企画でPSBはエルビスの「Always on my mind」をカバーすることになり、コスプレして歌った。曲はエルビス本人よりヒットした。ただし、2人とも「そんなにファンでもない」と言っていたことがある。




 さすがカトリックのことはいやでも頭の中に入っているニールですが、教えには反発せざるを得ない、相変わらず複雑な立場です。「トリノの聖骸布」のことは、ワタシも聞いたことがあります。キリストを包んだ布といわれ、その顔や姿がくっきりと布に写っている布です。でも、最近の調査では年代測定で布の時代がもっと新しいとか、写真の原型ではないかとか、いろいろ解き明かされています。でも、キリスト教徒の人にとって、それはどうでもいいんだよね。



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